浮世絵で見る江戸・日暮里

第7回 千住乃大はし

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:荒川なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

芭蕉が泣いた別れの橋

蔵三さん、夏休みが凄〜く長かったわりには日焼けしてませんね。



嫌味な言い方だなぁ。ワタシはねぇ、こう見えても敏感肌なんだよ。日焼けはしない主義なの。外になんか出なくてもさぁ、今年は異常に暑い夏で、しかも電気を使うなっていうんだから、家で汗をダラダラ流してふて寝すれば、サウナに入ったようなもんだ。代謝が良くなって健康にもいいぞ。

ど〜せそのあとビールか何か飲むんでしょ。意味無いじゃん。



よくわかってるじゃないか。でもね、一昨年糖尿病で入院して以来、食べ物には気を遣ってるんだ。野菜中心で低カロリー高タンパクね。ビールのつまみは自家製の浅漬けと冷や奴、これに限るな。

自家製って、自分で作るんですか?



最近、スーパーで浅漬け買って食中毒起こした例もあるからね。自分で作るのが一番だよ。冷や奴もおかかと生姜に千住ねぎをパラパラっと。


千住ねぎっていう葱があるの? 初めて聞いた。



一般に長葱と言われる根深ねぎの代表が千住ねぎだ。葉が美味しい葉ねぎなら京都の九条ねぎ、煮物にいいのは下仁田ねぎね。


ふ〜ん、名前が残っているということは、千住はねぎの名産地だったの?



江戸野菜には練馬大根、亀戸大根、谷中生姜、小松菜等々いろいろあるけど、千住ねぎっていうのは実際には千住より葛飾の方でとれたらしいから、千住原産のねぎということよりも、千住のやっちゃ場で取引される上質のねぎという意味合いの方が強い。

ははぁ、今で言うブランドっていうことか。そういえば千住大橋の近くに、今でも青果市場があるわよね。


やっちゃ場の名残りだね。小規模なやっちゃ場は戦国時代からあったらしいけど、千住のやっちゃ場が賑わい始めるのは、文禄3年(1594)に千住大橋が架けられてからだ。対岸からの物流量が一気に増えたからね。

1594年ってことは、関ヶ原の合戦より前ってことよね。その頃江戸ってあったの?



家康が江戸に入ってすぐのことだ。それまで隅田川には橋がなかった。もっぱら渡し舟に頼っていたから、江戸の都市整備を進めるにはどうしても橋が必要だった。


確かに、建築資材とか食料とか、何を運ぶにも橋がないと不便よね。



家康は土木工事のスペシャリストだった伊奈忠次(いな ただつぐ)に命じて工事が始まるんだけど、当時、全長120m、幅7mという橋の工事は前代未聞の大工事だった。それだけに苦労も多かったらしい。ちなみに広重が「江戸百」で描いた千住大橋(写真左)は、明和4年(1767)に架け替えられたものだ。それまでにわかっているだけで5回の架け替えや改修が行われている。

隅田川に新しい橋を架けることになったら、今でも大工事だもんねぇ。江戸時代ならなおさらでしょうね。メンテだってハンパなかったと思うわ。


橋杭を頑丈にするために、伊達政宗が水に強い高野槇(コウヤマキ)の材木を寄進したという話もある。忠次は無事竣工を祈願して何度も熊野権現に参拝した。その熊野権現は、今も南千住に残っているんだ。そんなわけで、やっとの思いで完成した橋だけど、それがあまりに大きかったから、付いた名前が「大はし」。

あはは。シンプルでストレートなネーミングね。



奥州街道と日光街道は、江戸を出発すると、この橋の手前、小塚原から道がひとつになって、橋を渡ってから分岐していくから、必然的に千住は宿場町として発展していく。千住は江戸から見れば東国への入り口、東国から見れば江戸への入り口になったわけさ。

それで、物流の拠点にもなったわけね。ところで、やっちゃ場ってどうしてやっちゃ場って言うの?


競りの際に競り人である投師が「やっちゃ、やっちゃ」と声をかけたのが語源のようだね。日光街道沿いの千住河原町にあった千住のやっちゃ場は最盛期には神田、駒込と並んで江戸の三大市場と呼ばれていたんだ。戦災で焼失してからは橋戸町に移ったけど、町おこしで今でもたくさんの屋号が掲げられているから、往時を偲ぶ手助けにはなるよ。


なんか面白そうね。今度行ってみよ。



千住宿は芭蕉が「奥の細道」へ旅立つ際に弟子達に見送られ、初句を詠んだことでも有名で、たくさんの記念碑や像がある。その句が有名な「行く春や鳥啼き魚の目は涙」。


そうかぁ。橋は出会いと別れの場所でもあるのね。ところで、江戸時代の隅田川には、千住大橋以外にどんな橋があったの?


実は、幕府は長い間この橋以外大川、今の隅田川に架橋を許さなかった。これはあくまで軍事上の目的で、幕府にとって隅田川は天然の堀だったんだ。ところが明暦3年(1657)の通称「振袖火事」で、橋がないために多くの人が逃げられずに亡くなった。その反省からやっと万治3年(1660)に両国橋が架けられる。

っていうことは、60年以上隅田川には橋がひとつしかなかったってこと? 信じられない…。


両国橋も完成当初「大はし」って呼ばれていたから、元祖「大はし」は、両国橋と区別するために「千住大はし」と呼ばれるようになった。その後元禄6年(1694)にできた3番目の橋は、新しい大橋だから「新大はし」。

大変な工事で作られる割には、意外とイージーなネーミングなのね。



イージーと言えば、「萬年橋」に対抗して付けられた名前が「永代橋」。万年より永代の方が長いだろ。その永代橋が完成したのは元禄9年(1696)、安永3年(1774)には大川橋が完成して隅田川の橋は4本になる。万治から元禄にかけて橋が3本も架けられたのは、もう他藩から攻められる恐れがなくなった、つまり平和な時代になったということ。橋が増えたのは武断政治から文治政治への“橋渡し”という意味もあるんだよ。
<おわり>


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